『フランケンシュタイン対地底怪獣』
1965年8月8日公開
脚本 馬淵薫
特技監督 円谷英二
監督 本多猪四郎
よく考えたら「フランケンシュタインと怪獣が戦う」と言うかなりのキワモノ企画であるが実際に見たら東宝特撮怪獣作品の中でもトップクラスにシリアスで哀しい話であった。
当時のゴジラシリーズが『三大怪獣 地球最大の決戦』『怪獣大戦争』とコミカルな雰囲気に変わっていった中、本作は1950年代の怪獣映画が持っていた暗さ怖さを感じる内容となっている。
『ゴジラ』でも「戦争」「核」と言った要素が取り上げられているが、本作では実際に広島の原爆が描かれる等、より直接的になっている。
ゴジラを始めとする多くの怪獣達は放射能等の影響で変異したと言う設定があるが本作では遙か昔に絶滅した恐竜ではなく我々と同じ人間が変異したフランケンシュタインが登場した事で生物を変異させてしまう放射能の恐ろしさをまざまざと見せつけた。
本作は「原爆症」「浮浪児」「パンパン」「混血児」と言った言葉が出ていて他の怪獣作品にあったファンタジー的な部分がかなり削ぎ落とされて生々しくなっていた。
又、主人公達が怪獣事件に関わり続けるには「金」と「暇」が無ければいけないとか全体的にご都合的な展開が減らされてリアルな内容になっていた。
リーゼンドルフ博士はフランケンシュタインの心臓をナチスに取り上げられた後は戦争で命を落としたのかなと思いきやなんと戦後も無事に生きていた。
広島で発見された浮浪児の正体がフランケンシュタインの心臓が成長した姿かどうか確認する方法として「試しに手か足を切り落とす」と言ったのには驚いた。いや、まぁ、フランケンシュタインの心臓の特性を考えたら確かにそうなんだろうけれど、もし浮浪児の正体がフランケンシュタインの心臓ではなかったらと考えるとそんな提案をあっさりやれるリーゼンドルフ博士が怖くなる。
リーゼンドルフ博士の性格だと戦後も機会があったらフランケンシュタインの心臓の研究を続けていそうなのだが、それをしていないと言う事はやはり戦後の価値観では許されない研究だったのかな。それともリーゼンドルフ博士はフランケンシュタインの心臓を作り出した人物ではなくて、彼の他にフランケンシュタインの心臓を作り出した研究者がいて、戦争中にその人物は命を落としてしまって、リーゼンドルフ博士は新しいフランケンシュタインの心臓を研究する事が出来なくなったのかもしれない。(本作ではメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』が実際にあった出来事のようなやりとりがあるので、ひょっとしたら科学者のフランケンシュタインが実在していた設定なのかもしれない)
本作に登場するフランケンシュタインの悲劇の原因は「人間を遙かに超えた大きさになった事」であろう。
フランケンシュタインはまだ小さい頃に車に轢かれたトラウマで車を恐れ続け、季子はその時に助けたフランケンシュタインの印象を今も持っていて「坊や」と呼び続ける。しかし、実際はフランケンシュタインは車を踏み潰せるほどの巨体になっていて、季子が彼を「坊や」と呼ぶには違和感がある姿になってしまっていた。
自分はスチール写真等を見た時はフランケンシュタインに対して「怖い」と言う印象を抱いたのだが実際に映画を見たら「可哀想」と言う印象を抱いた。
どうして印象が変わったのか考えてみると、映画ではフランケンシュタインは「逃げる」場面が多かった事に気付く。彼が人間に積極的に近付いていったのはTVで面白そうだった若い男女の踊りを実際に目にした琵琶湖の船の場面くらいで、それ以外では基本的に何かに追われて逃げていて、人間に追いつめられて反撃する時も基本的には威嚇に留めている。初登場場面も「犬を襲う場面」ではなく「犬を襲った為に人間に追われる場面」となっている等、フランケンシュタインが何かを襲う場面は極力外されていた。だからこそ、クライマックスで季子を守る為にバラゴンに向かって行った事でフランケンシュタインにとって季子がどれだけ大事な存在だったかが分かる。
フランケンシュタインの心臓は不死身となっているが、タンパク質を得て大きくなったらより多くのタンパク質が必要となって、必要なタンパク質を摂取する事が出来なかったら生命活動が停止してしまうとなっている。
これでは近い将来に必要なタンパク質を摂取出来なくなってしまうのは確実で、とても「不死身の存在」とは言えない。日本とドイツはフランケンシュタインの心臓を使って不死身の兵士を作ろうとしていたが、食糧事情が苦しかった戦争末期の日本とドイツでフランケンシュタインの心臓を使った兵士達にタンパク質を与え続けるのは難しかったと思う。
フランケンシュタインは浮浪児の時代から服を着て靴を履いていたし、巨大化して季子が用意した服を着れなくなった後も自分で新しい服を用意している。他にも火を点ける技術があったりと幼少期に誰かに育てられたと思われる描写がある。
フランケンシュタインについて、ボーエンは「研究対象」として、季子は「坊や」として最初から最後まで接し方にブレが殆ど無かった。それに対して川地はフランケンシュタインを研究対象として扱う一方で人間の子供として見ているところもあって、その結果、リーセンドルフ博士やボーエンほど割り切れないが季子ほどフランケンシュタインに肩入れする事も出来ないと最も大変な位置に立つ事になってしまった。
しかも、川地は頭が良いので「フランケンシュタインをこれ以上飼育する事は困難。それならフランケンシュタインの目を潰して体の一部を手に入れる事で結果的にフランケンシュタインの生命が生き存えるようにしよう」と考える事が出来てしまった。
「物事を冷静に見る事が出来る」「人の情をきちんと持っている」「状況を的確に把握して解決策を考える事が出来る」と主人公に相応しい能力を持っていた事が川地を苦しめる事になってしまった。
フランケンシュタインと戦う事になる地底怪獣バラゴンは二足歩行の人間型であるフランケンシュタインに対して四足歩行の動物型、人間を食べないフランケンシュタインに対して人間を食べる、広島から地上を通って北上するフランケンシュタインに対して秋田から地中を通って南下していく、と全てが対になっていた。
フランケンシュタインがバラゴンと戦う場面は生身の役者だから出来る素早い動きや炎や木や岩等を使った戦法がこれまでの怪獣対決とは違っていて新鮮だった。
映画の前半では怖さもあったフランケンシュタインだが、映画の後半では口から光線を吐いたり空を飛んだりする事が出来ないフランケンシュタインが頭を使って必死に戦っているので思わず応援したくなった。この辺りの観客の心の持って行き方はかなり上手かった。
フランケンシュタインの身長が20mもあるので実感が湧かないところがあるが、殆ど生身の状態で自分と殆ど同じ大きさの肉食獣と取っ組み合って戦うと考えたらフランケンシュタインは本当によく頑張ったと思う。自分だったら身長2mの肉食獣と生身で戦うなんてとても無理だ。
実はフランケンシュタインとバラゴンの間には因縁が全く無いのだが、最後に両者が戦う展開に観客が違和感を抱かないように出来上がっていたのは見事だった。
フランケンシュタインがバラゴンを倒してめでたしめでたしと思ったところにいきなり出てきた大ダコ。やはり登場が唐突だったし、基本的に自分から戦いを挑まないフランケンシュタインがバラゴンと戦ったのは季子を助ける為だったので、季子を襲ったわけではない大ダコにフランケンシュタインが戦いを挑むのも無理矢理感があった。
劇場公開版のいきなり地面が陥没してフランケンシュタインが地中に消えていく結末も唐突で驚くが、こちらはバラゴンが掘り進んだ為に地中に空洞が出来ていて陥没してしまったと考える事でまだ納得出来るのだが……。
「フランケンシュタインは貴重な資料である」と何度も訴える川地とボーエンを見ると「所詮はフランケンシュタインを人間ではなく研究対象として見ているのか……」と少し悲しい気持ちになるが、冒頭にあったボーエンと原爆症の女性の話を思い出すと彼らがフランケンシュタインが持っている可能性にどれだけ強い期待を抱いていたのかが分かる。
それだけに原爆を受けても生き存える事が出来たフランケンシュタインの存在をボーエンが最終的に「死んだ方が良いかもしれない。しょせん彼は怪物だ」と断じたのは辛かった。これは冒頭の原爆症の女性との話からあったボーエン達の努力や希望の全てが諦められた事を意味しているのだ。
