『ゴジラ』
1984年12月15日公開
脚本 永原秀一
特技監督 中野昭慶
監督 橋本幸治
『メカゴジラの逆襲』以来9年振りに公開されたゴジラシリーズの第16作。
「ゴジラ誕生30周年記念映画」で、昭和最後のゴジラ作品であり、後の平成VSシリーズに続く作品でもある、とゴジラシリーズにとって一つの転換期と言える作品。
1954年に公開された『ゴジラ』の続編となっていて、『ゴジラの逆襲』から『メカゴジラの逆襲』までの話とは別の時間軸となっている。ここからゴジラシリーズは一作目の『ゴジラ』から様々な物語へと時間軸が分岐していく事となる。
初代のゴジラはオキシジェン・デストロイヤーによって死亡しているので本作に登場するゴジラは別個体なのだが、劇中では「生きていたゴジラ!」「ゴジラ復活!」と言った新聞記事が出る等、初代のゴジラが実は生きていて復活したような感じになっている。
林田博士の説明も「大黒島の噴火による激しい地殻変動によって眠っていたゴジラが目覚めて地表まで押し出された」と今回のゴジラがいつどこで核によって怪獣化したのかについては触れられておらず、まるで初代のゴジラはオキシジェン・デストロイヤーで死んではおらず地下に逃れて生き延びていたと思えるような感じになっている。
全体的に「新しいゴジラが現れた」より「ゴジラが復活した」と言う感じが強くなっていたのは今回の作品が一作目の『ゴジラ』の雰囲気を復活させると言う目的があったからだと考えられるが、個人的には本作のゴジラは初代が復活したのではなく初代とは別個体であるともう少し明確に語ってほしかったなと思っている。
「ゴジラは動物なのですか?」と言う牧の質問に林田博士は「ゴジラはいわば核兵器のようなものだ。それも生きた核兵器だ。勝手気ままに動き回り破壊を繰り返す。その上、ゴジラの生命は不滅と来ている」と答えるがその後に「ゴジラはまた動物である事も確かだ」「私はゴジラを原子炉だと思っていないよ」とも言っていて、結局、ゴジラは動物なのか違うのか明確な答えは示されなかった。だが、それこそが「怪獣」と言うものなのかもしれない。
そう言えば冒頭にあった「第五八幡丸が大黒島に引き寄せられる」と言う怪現象の原因は何だったのだろうか?
『ゴジラ対メカゴジラ』でゴジラが磁力で鉄塔やメカゴジラを引き寄せていたが似たような能力を本作のゴジラも発揮していたのかな?
ショッキラスの場面はミイラ化した船員がハッキリと映される等、かなりショッキングな演出になっている。
ショッキラスは東宝特撮怪獣映画だと『空の大怪獣ラドン』に登場したメガヌロンの系譜で、巨大なので遠くからでも接近が分かるゴジラやラドンとは違った「小さい故にいつどこから接近されるのか分からない怖さ」があった。
たかが数センチのフナムシでもゴジラに寄生してゴジラの体内から発せられる放射性物質を絶え間無く浴び続ける事で1mに巨大化してしまう。それならばゴジラの周囲にいる生物全てが巨大化してしまう恐れがあるのではないかと思ったが、本作のゴジラは周囲の放射能を吸収しているので、絶え間無く放射能を吸収出来るのはゴジラに寄生して血を吸うフナムシくらいだと思われる。
林田博士は30年前のゴジラ襲撃で家族を失った事をきっかけにゴジラに関する研究を始めるようになったのだが、「ゴジラは放射能が作り出した「怪獣」「化け物」と殆どの人は思っています」と言う牧の言葉に「その化け物を作り出したのは人間だ。人間の方がよっぽど化け物だよ」と返し、その後も「30年前に大戸島に現れたゴジラは伝説の怪獣と同一視された。世の中が乱れる時、天変地異が起こり怪獣が現れる。ゴジラはまさしく人類の滅びへの警告なんだ」と語る等、ゴジラに関する研究を続けるうちにゴジラへの怒りや憎しみがゴジラを生み出した人間への怒りや憎しみへと変わっていったところがある。
なので、林田博士には「ゴジラを倒してめでたしめでたし」と言う考えは無く、ゴジラ倒すべしと言う話になると顔が曇っていた。帰巣本能を利用した作戦を提案したのも「せめてゴジラを故郷に帰してやりたい」と言う願いから来たものとなっている。
家族を殺された事でゴジラを憎んだがゴジラによる原発襲撃でゴジラを死なすべきではないと確信する林田博士は一作目の『ゴジラ』で生物学者としてゴジラを死なせたくなかったがゴジラによる東京破壊や芹沢博士の死でゴジラを倒すしかないと考えを改めた山根博士と対になっていた。
牧は社会正義を追求するタイプであるが一方で兄妹愛を利用してスクープを手に入れる強かさも持っている。
映画の前半では政府がゴジラに関する情報を統制しているので牧や牧が所属する新聞社の強かさが存分に発揮されたが、世間に向けて情報が公開された映画後半では牧が宏と一緒に林田博士の助手のような形に落ち着いてしまったのは勿体なかった。
皆を救う為に最善を尽くそうとする映画後半の牧の活躍はまさに主人公と言えるものではあったが、個人的には映画前半にあった強かさで各国政府の暗躍を暴いていく牧の活躍を見たかった。
これまでのゴジラシリーズと違って本作は三田村首相を中心とした政治家の場面がメインの一つとなっている。その為、本作は他の作品以上に東西冷戦と言う1980年代当時の政治情勢が描かれた。
他にもゴジラの存在を日本政府が隠蔽した事でゴジラによる原潜破壊をソビエトがアメリカの仕業と考えて第三次世界大戦の危機が高まる等、「怪獣と言う存在が国家にどのような影響を与えるのか」が描かれていた。
個人的にはこういう路線はもっと見たいのだが、国家レベルの話になるとこれまでのゴジラシリーズの主人公達では関わるのが難しくなってしまうところがあって、子供も見る映画である事を考えると、やはりこの路線は難しいものがあったのかなと思う。(『シン・ゴジラ』は主人公を若い政治家にする事で上手くバランスを取った)
冷戦の為に実戦で使いそびれていた核兵器の実験をしたいが為にアメリカとソビエトが足並みを揃えてゴジラへの核攻撃を提案する。
アメリカとソビエトの申し入れを蹴ったら日本が外交的に孤立する恐れがあったが三田村首相は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の「非核三原則」を掲げて拒否し、それは日本のエゴイズムだと言う反論にも「非核三原則が我が国のエゴイズムだと言われるのならそれは認めざるをえません。しかし、核を使いたがるのもアメリカとソ連のエゴイズムではないでしょうか」と毅然と返した。ここでアメリカとソビエトを相手に一歩も引かないで対等の立場で意見を述べた三田村首相が格好良かった。
三田村首相の面白いところはこの後で、特使相手では埒が明かないと判断すると自分で両国の最高責任者と直接話をして、両首脳に「もしあなた方の国、アメリカとソ連にゴジラが現れたら、その時あなた方は首都ワシントンやモスクワで躊躇わずに核兵器を使える勇気がありますか?」と告げたところであった。アメリカとソビエトが核兵器を使用出来るのはそれが自分達の国から遠く離れた日本だったからで、ワシントンやモスクワで核兵器を使用するとなったら国内世論の反発は必至で大統領の立場が危なくなる。いわばこれは「アメリカとソビエトは日本で核兵器を使いたかったら「ゴジラがアメリカやソビエトに現れたらワシントンやモスクワでも核兵器を使用する」と自国の国民に向けて宣言しろ」と言う一種の脅しである。三田村首相は「両首脳は納得してくれた」となんかイイ話のように結果を報告していたが実際はかなりえげつない交渉をしていたと思われる。(逆に「ゴジラが自国に出現した場合でも核兵器を使う」としてアメリカが日本に東京での核兵器使用と迫ったのが『シン・ゴジラ』)
本作の感想を調べると「火口に沈むゴジラを見て三田村首相が涙ぐむ理由が分からない」と言った意見をいくつか見た。これについての自分の考えだが、ゴジラの出現でアメリカとソビエトが冷戦で使いそびれていた核兵器を使おうと考えるようになったのに対して三田村首相が「安全な核兵器などあり得ません。そして一度使われてしまえば抑止力としての均衡は破れ、世界の破滅に繋がります。それが核と言うものです」と語ったように本作ではゴジラの存在が核兵器使用に繋がって最終的に世界破滅へと至ってしまうとなっていて、もし最後の磁性体を利用した作戦が失敗してゴジラを三原山の火口に落とす事が出来なかったら、人類はゴジラを倒す為に核兵器を使用する事になり、その結果、今まで使わなかった事で働いていた核の抑止力が失われ、世界は核による破滅へと突き進んだ恐れがあった。なので、自分はゴジラが火口へと消えていくのを見て三田村首相が涙ぐんだ理由は「核兵器使用による世界破滅の危機を回避出来たから」と考えている。
自分は本作の凄いところに「ゴジラのイメージを変えた」があると考えている。
ゴジラファンではないがゴジラはなんとなく知っている人に「ゴジラはどういう存在か?」と尋ねたら「原発を襲う怪獣」と言う答えがかなり高い確率で出てくると思われるが、実はゴジラが原発等の核に関するものを狙うようになったのは本作からである。
ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズも平成に入ると色々と設定を変えたところがあったが、それでもかなり長い期間に亘って「ウルトラマンと言えばM78星雲からやってきた宇宙人」「仮面ライダーと言えばショッカーと戦う改造人間」と言った昭和のイメージが根強かった事を考えると、「原発等の核に関するものを襲う」と言う平成から出来た設定を世間に浸透させた本作以降のゴジラシリーズの影響力の強さに驚く。
ゴジラが原発を襲って放射能物質を吸収する姿は『ゴジラ対ヘドラ』でヘドラが工場から排気ガスを吸収した姿を思い出した。
ヘドラは「公害版ゴジラ」と言った怪獣であったが、本作のゴジラは逆にヘドラから様々な要素を取り入れた形になっていた。
ゴジラの原発襲撃場面は足音と共に地割れが起きた後、警備員の視界を全てを塞ぐほどの大きな足が出て、そこから巨大なゴジラの全身が現れるとなっていて、その後も警備員の頭上を通過する姿や建物を破壊する姿で「ゴジラは巨大である」と言うのを見せていた。
本作は怪獣バトルが無いのでゴジラのスピード感より巨大感を強調した場面が多かった。
首都防衛の為に日本が秘密裏に開発していた空飛ぶ要塞スーパーX。
アメリカの特使との会談でスーパーXの話題が出なかったところを見ると日本はアメリカにも秘密で開発を進めていた可能性がある。
三田村首相の言動もだが、本作の日本は東西冷戦の中で最終的にはアメリカにもソビエトにも依らない国作りを考えていた節がある。(ひょっとしたらこの流れが『ゴジラvsキングギドラ』で語られた23世紀の日本に繋がっているのかもしれない)
ゴジラとスーパーXの戦いは最初のカドミウム弾の打ち込みはリアルを重視した地味なものであったが、ゴジラ復活後の戦いはビル街と言う舞台を有効に活用した面白いものになっていた。
映画の前半では高層ビルが建ち並ぶ東京の場面が何度かあったが、映画の後半ではこれらがゴジラによって次々と破壊されていった。
本作のゴジラは身長80mとこれまでのゴジラより30mも大きくなったのだが、そんなゴジラですら覆い隠してしまう高層ビルによって形作られた大都会東京もある意味で「怪獣」と言えるのかもしれない。
個人的に本作はゴジラが東京に上陸してからの展開に雑さを感じて残念になった。
クライマックスの為にゴジラを復活させたかったのは分かるが、ゴジラが上陸する可能性が高い事を知っていながらソビエトが東京湾に核ミサイルのコントロールを持ち込んだり、主人公達をピンチにさせたかったのは分かるが、ゴジラ対策の大事な実験をしているのにゴジラが東京に上陸しても近くに政府関係者や自衛隊員が一人もいなかったりとそれまでリアル寄りに話を進めていただけに後半の雑さが目に付いた。
「軍と怪獣の戦いがメインになると一般人の主人公が活躍する場面が無くなってしまう」は以前からあった問題だが、本作ではその問題を解決する為に軍人でも科学者でも政治家でもない牧に「ヒロインの尚子を連れてゴジラから逃げる」と言う「ゴジラとの戦い以外の見せ場」が用意された。
今までのゴジラシリーズでは意外と無かった「ゴジラによって廃墟と化した街を逃げ回る主人公とヒロイン」と言う終末感溢れる絵は面白かったが、その場面を作る為に「ゴジラが接近している中、一人の自衛隊員も付けられずに対ゴジラ作戦の実験が続けられる」「自衛隊のヘリが救助に来るが一般人の宏がビルに取り残された牧達の救出を担当する」と言った強引な展開をしてしまったのは残念だった。
武田鉄矢さんが演じる浮浪者の場面は当時の武田鉄矢さんの知名度を考えたら必要だったのかもしれないが、やっぱり終盤にいきなり出てきて特に重要な役どころではないのに出番が多いと言うのはノイズになっていたと思う。
林田博士がゴジラの存在に色々と意味を持たせようとしていたのに対して浮浪者はゴジラの破壊に意味を見出していないと言う構図は面白そうだったので、その辺りを深掘りしていればまた違った評価になったのかもしれない。
カドミウム弾で一度は活動を停止させたゴジラが核ミサイルの爆発による落雷で復活するのは『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』を思い出す。
太古の恐竜にも帰巣本能があったとして、磁性体を利用してゴジラを三原山の火口に誘導する事になる。
「ゴジラが生存本能より帰巣本能を優先して火山の火口に向かうのは不自然」と批判される事があるが、ゴジラは誘導装置に反応して火口付近まで来たが自分から溶岩の中に入っていったわけではないので、まだあり得るレベルなのかなと思う。自衛隊もゴジラが自分から溶岩の中に入るとは思っていなかったので火山を人工的に爆発させてゴジラを溶岩の中へと叩き落としたわけだし。
『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』のように一時期の怪獣映画は火山を使って強引に話を締める事があったので本作はちゃんと伏線を張って理由付けをして火山による決着を描いたのだと思われる。
磁性体を利用したゴジラ誘導作戦の問題は本作を引き継いだ平成VSシリーズで「また林田博士にゴジラを誘導してもらえば解決するのに」と言うツッコミが生まれてしまった事だと思う。
本作のゴジラは海から現れたのではなくて噴火した大黒島から現れているので、最後はゴジラを火山に落とすと言う流れはなるほどとなる。
誘導装置の説明で林田博士が「せめてゴジラを故郷に帰してやりたい」と言っているが、一作目の『ゴジラ』で山根博士が「ゴジラは海底の洞窟に潜んでいて彼らだけの生存を全うしていた」と説明しているので、林田博士はゴジラをかつて彼らがいた安住の地に戻そうとしたのかもしれない。
この「我々が生きている地面の遙か下にはゴジラ達の故郷があるのかもしれない」と言う話はモンスター・ヴァースのホロウ・アースを思わせる。
本作は前作の『メカゴジラの逆襲』から9年、次作の『ゴジラvsビオランテ』まで5年の間が空いているので他のゴジラシリーズとは作品の雰囲気が異なっているところがある。
個人的にはゴジラシリーズでは珍しく1980年代の要素が強い本作はお気に入りの作品で、本作での特撮の見せ方や音楽等はもっと評価されても良いかなと思っている。(でも、エンディングは別バージョンの方が本作には合っていたかな。歌そのものは嫌いではないのだが本作には合っていなかったと思う)
それにしてもこの後現実でも三原山が噴火したのは当時驚いたなぁ。
