『モスラ』
1996年12月14日公開
脚本 末谷真澄
特技監督 川北紘一
監督 米田興弘
平成モスラ三部作の第1作。
特撮は川北監督がゴジラシリーズから続投しているが、脚本は末谷真澄さん、本編監督は米田興弘さん、音楽は渡辺俊幸さんと新たな布陣になっていて「脱ゴジラ」を感じる作品となっている。
ゴジラシリーズは一作目の『ゴジラ』から昭和シリーズと平成VSシリーズに分岐する形となっているが、本作から始まる平成モスラ三部作は昭和のモスラ作品とは完全に切り離されたシリーズとなっている。
直接の繋がりは無いが本作では『ゴジラvsモスラ』にあった「光線を放ってきらびやかなモスラ」「自然破壊」「凶悪な怪獣が封印される」と言った要素が引き継がれている。エリアスが二派に分かれているのもモスラとバトラが元ネタかな。他にも「小さいモスラ」であるフェアリーの元ネタは『ゴジラvsスペースゴジラ』のフェアリーモスラだと思われる。
一作目の『モスラ』では報道関係者が主人公だったが本作では逆の憎まれ役になっているのが興味深い。(田川が病院で携帯電話を使って医療関係者に注意されているが実は1一作目の『モスラ』でも福田が取材の為に国立総合核センターに潜入して医療関係者に注意される場面がある)
では、田川と対立する後藤裕一が善人なのかと言ったらそうではなくて、仕事とは言え強引に開発を進めたり家族の問題を放置気味だったりと主人公である大樹と若葉の父親でなかったら『ゴジラvsモスラ』の友兼のように悪役のまま終わっていそうな人物となっていた。
最終的に後藤裕一は改心するのだが田川は特に考えを改める場面が無くて「マスコミって嫌な奴等だよね」と言う感じで終わってしまったのは勿体なかった。自然破壊をする豊国商事の横暴を暴くと言う大事な役回りを担っていたのでもう少し良い印象に描いてほしかった。
ゴジラシリーズでは子供が中心になる作品は意外と少ないが、モスラ作品では一作目の『モスラ』も『ゴジラvsモスラ』も子供が重要な位置で出ていて、今回の平成モスラ三部作も子供を中心にしたジュブナイル作品となっていて、それがゴジラシリーズとの差別化になっている。
喧嘩ばかりしていた兄妹が仲直りをして奇跡を起こす流れはベタではあるがやはり見ていてグッとくるものがある。
昭和のモスラ作品ではザ・ピーナッツやベア・バンビと言った双子が小美人を演じていたが、『ゴジラvsモスラ』では今村恵子さんと大沢さやかさん、本作では小林恵さんと山口紗弥加さんと羽野晶紀さんと言った双子ではない人達が小美人を演じるようになった。
それに伴ってか、これまで小美人は二人で一人みたいな感じになっていたが平成モスラ三部作ではモル、ロラ、ベルベラのエリアス三姉妹は3人のキャラに違いが付けられている。
ベルベラが後藤家を襲った場面は「人外に操られる妹」「ベルベラの能力によって母親に被害が及ぶ」等とファンタジーと言うよりホラーな感じになっている。
「ちっちゃい者達が家の中で大暴れ」と言うシチュエーションは漫画やアニメ等でもよく見られるものだが実写でやったら思った以上に洒落にならない雰囲気になった。漫画やアニメでの「家具が壊れたと言う絵を描く」と実写での「実際に家具を壊す」の間には結構大きな差があるのかもしれない。
振り返ってみたらベルベラはかなりヤバい事をやっているのだが、演じた羽野晶紀さんがとにかくハマっていたので、どこか憎めない感じのキャラになっていた。
デスギドラは恐竜が絶滅した6500万年前頃の太陽系にやって来た宇宙生物で、惑星の命を吸って火星を不毛な惑星に変えたのだが地球でエリアスの祖先に封印されたと言う設定。
元ネタはもちろんキングギドラ。『ゴジラvsキングギドラ』に登場したキングギドラは未来人が作ったと言う設定だったので、宇宙怪獣のギドラ族が登場するのは『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』以来24年振りとなる。
デスギドラの復活は爆発する地面、逃げ惑う人々、燃える森と色々な場面が挟み込まれてかなり時間がかかっているが、それが「とてつもなくヤバい奴が復活した!」を示す事になっていた。
その後もデスギドラは口から吐いた火炎で地面を割る等、全体的に攻撃の火力が強くて迫力があった。よく考えたらデスギドラは衰えている親モスラと予定より早く卵から孵った子モスラを中々倒せなかったり、成虫になった子モスラに圧倒されたりしたのだが、それでも「ヤバい奴だった」と言う印象が残っているのは凄まじい破壊描写があったからだと思われる。
デスギドラは四つ足で横長のシルエットになった事で重量感が生まれ、縦長のシルエットだったキングギドラとの差別化がされていた。
ダムを破壊したら溢れた水に流されてしまったデスギドラ。
『ゴジラ対メガロ』もだったが、ダムが破壊された時の水の流れは怪獣を押し流す程の威力を誇る。
『ゴジラvsモスラ』に引き続いて本作でもモスラは光線を撃ちまくっていて、なんと幼虫モスラも腹部から光線を撃ち、口から吐く繭の糸も謎の発光をするようになった。
さすがにちょっと光線を撃ちすぎではないかと思わなくもないが、結果としてゴジラシリーズや昭和のモスラとの差別化が出来たところがある。
この頃になるとTVゲームもプレイステーションやセガサターンが登場してエフェクトがどんどん派手になっていったので、光線撃ちまくりの平成モスラはTVゲーム時代に上手く合わせていたと言える。
親モスラの戦いを子モスラが引き継ぐのは『モスラ対ゴジラ』と同じだが、今回は「子モスラが成長しきる前に卵から孵った」「卵から孵ったのが一体だけで『モスラ対ゴジラ』のような数的有利が無い」とより厳しい状況となっている。
『ゴジラvsデストロイア』に「ゴジラジュニアの死にゴジラが泣く」と言う場面があったが、本作の「海に沈む親モスラとそれを見送る事しか出来なかった子モスラ」の場面も見ていて悲しい気持ちになった。
昭和の頃は小美人が通訳したり怪獣自身が吹き出しで喋ったりと怪獣の気持ちを人間の言葉に翻訳して観客に伝えていたが、本作では怪獣の言動を擬人化させなくても観客に感情が伝わる場面を作り上げ、数ある怪獣作品の中でもトップクラスの名場面となった。
モスラ作品と言えば可愛らしいファンタジックな作品と言う印象があるが、本作はデスギドラに噛まれて体液を流す幼虫モスラ、デスギドラの復活に逃げ惑う人々が走る車とぶつかる、ベルベラに破壊される後藤家、怪我人が収容された病院等と言った生々しい描写が結構多かった。(あと女性の叫び声がやけに耳をつんざくものだった)
ドラマを後藤一家に集中させたのは分かりやすくなって良かったのだが、怪獣が出現してしばらく経っているのに自衛隊の場面が無いのはゴジラシリーズを見た後だとやはり違和感を覚えるかな。
これまでのモスラ作品も歌の場面がかなりあったのだが、本作は特にミュージカル映画っぽい印象を受けた。
今回のモスラは都会を破壊しながら突き進んで東京タワーや国会議事堂で繭を作るのではなくて屋久島の屋久杉と言う自然の中で繭を作ったので、「文明を破壊する存在」ではなく「自然の象徴」となっていた。
ぶっちゃけると自分は「モスラは蛾の怪獣なのにやたら強いな……」と昔から思っていたので、劇中で「いくら大きいと言っても虫は虫でしょう。あんな悪魔みたいな爬虫類に勝てる?」と言う疑問が出てきたのには思わず「フフッ……」となってしまった。
そのモスラなのだがなんと体当たりで空を飛ぶデスギドラを地上に叩き落とすと言う荒技を見せてさすがに度肝を抜かれた。お前、蛾の怪獣なのにそこまで肉体派だったのか……。
本作は「きょうだい」の話で大樹&若葉とエリアスを、「親子」の話で後藤親子とモスラ親子を上手く繋げていた。自然の力を使うモスラと自然を滅ぼすデスギドラの対比も人間は自然とどのように接するべきなのかと言うテーマに合致していた。
最初は崩壊寸前だった家族が危機を乗り越えて最後は一つにまとまる展開もベタではあるが娯楽作品として正しい形だったと思う。
戦いが終わって荒れ果てた森を見て裕一と真紀子が語る。
「ここが元の森に戻るには100年か200年かはかかるだろうな。自然が何百年もかけて作り上げたものを一瞬で台無しにしてしまったんだ」、
「でも、まだ遅くはないわ。時間はかかるかもしれないけど、今ならまだやり直せるし取り戻せる。大樹達の子供の時代になっても良いじゃない」。
この直後にモスラが森を復活させるのだがさすがにこれはやり過ぎだった。
本作のテーマが「自然破壊」でなければ「怪獣が暴れて色々失われたけれど最後は元に戻ってめでたしめでたし」でも気にならないのだが、今回は「自然破壊」がテーマで最後に自然を復活させる事の大変さとそれでも今から始めるべきだを語ったのにその直後に「奇跡ですぐに自然が復活しました」をしてしまったらと語られたテーマが弱くなってしまう。ここは森を復活させる為に人間が動き出した場面で締めるべきだったと思う。
