『ゴジラvsビオランテ』
1989年12月16日公開
特技監督 川北紘一
脚本・監督 大森一樹
ゴジラシリーズの第17作で、前作『ゴジラ』の物語を受けて展開された平成VSシリーズの第1作となっている。
脚本と監督を大森一樹さんが、特技監督を川北紘一さんが、音楽をすぎやまこういちさんが担当し、プロデューサーに富山省吾さんが加わり、一般公募で選ばれた小林晋一郎さんの話が原案になる等、これまでとは布陣や作り方が大きく変えられた作品。
原案の小林慎一郎さんは過去にも『帰ってきたウルトラマン』で「許されざるいのち」の原案を書いていて「孤独な科学者」「動物と植物の合成」「芦ノ湖が舞台」と共通点がある。
前作の『ゴジラ』でも「ゴジラに寄生したフナムシがショッキラスに変異する」と言う展開があったが、本作ではそれを発展させて「ゴジラ細胞」と言う設定が登場し、放射能や公害に続いて「バイオハザード(生物災害)」と言う新たな怪獣出現の原因が作られる事となった。
昭和のゴジラシリーズは『ゴジラ』『ゴジラの逆襲』以外の作品ではゴジラとは別のキャラクターが物語の中心になっていたのだが、本作は「ゴジラ細胞」の設定によって常にゴジラが物語の中心に据えられていた。
冒頭で前作の戦いが振り返られるのは『メカゴジラの逆襲』を思い出す。
実は本作と『メカゴジラの逆襲』は「死んだ娘を科学の力で蘇らせようとした父親の話」と言う共通点があって、真船桂は機械を組み込まれたサイボーグにされて最終的にメカゴジラの一部になって、本作の白神英理加は植物と融合させられて最終的にゴジラ細胞を持ったビオランテになってしまった。
ゴジラ細胞を巡って日本とアメリカと中近東の国サラジアが争う。
アメリカのバイオメジャーが非合法な手段でゴジラ細胞を入手しようとして、一方の日本政府も入手したゴジラ細胞を大河内財団に隠した事から、日本とアメリカがゴジラ細胞を巡って協力関係を築いていない事が分かる。
サラジアの人間がゴジラ細胞を使えば世界に君臨するアメリカを引きずり落とせると考えていたので、日本でも大河内会長のようにゴジラ細胞を使ってアメリカに勝とうと考える人間がいてもおかしくない。
前作『ゴジラ』や本作を見ると日本にはアメリカの言いなりにならない人達がいて、これらが次作『ゴジラvsキングギドラ』で語られる23世紀の日本へと繋がっていくように思える。
前作の『ゴジラ』では日本とアメリカとソビエトの対立は政治家や大使の話し合いによって繰り広げられていたが、本作での日本とアメリカとサラジアの対立はハリウッド映画のような銃撃戦になっている。この辺りの雰囲気は昭和のゴジラシリーズだと福田純監督作品に近い。
雰囲気が落ち着いているのでまともな人に見える白神博士であるが、死んだ娘の細胞をバラの細胞と融合させると言うゴジラシリーズでも屈指の危険人物だったりする。
『メカゴジラの逆襲』で死んだ真船桂がサイボーグとなって蘇ったのはブラックホール第3惑星人の地球侵略計画の一環だったのだが、平成VSシリーズは宇宙人が登場しないので、白神博士は自身の力で死んだ娘の細胞とバラの細胞とゴジラ細胞を融合させると言うとんでもない人物となってしまった。
白神博士はビオランテを生み出して世の中に多大な被害を与えているのにどこか他人事のような感じで事態を分析して解説していた。「自分にはもう守るものが無い」と言った理由で黒木特佐からの勧誘を一度断っているので、おそらく娘を失った時点で世の中への興味関心を失ったのであろう。なので、白神博士はあくまで自分の実験とその結果だけを気にしていて、世の中の動向に関してはどこか醒めた態度を取っている。
そして娘とバラとゴジラ細胞の融合の結果を観察して分析し続けた白神博士は最後に「私はもう抗核バクテリアもビオランテも作りません。ゴジラでもビオランテでもない。本当の怪獣はそれを作った人間です」と言う結論を出す事になる。
本作から超能力少女の三枝未希が登場。
昭和のゴジラシリーズでも宇宙人やサイボーグと言った人外のキャラクターが登場していたが、平成に入って新たに「超能力者」が加えられる事となった。
三枝未希のイメージ元は映画『キャリー』らしいが、個人的には1980年代のガンダムシリーズに登場するニュータイプを連想するところがあった。
精神科学開発センターの子供達がゴジラに破壊される街の絵を無邪気に掲げる場面は下手なホラー描写より怖かった。
年齢的に前回のゴジラ襲撃を知らないか記憶が無いのでゴジラの恐ろしさが分からないのかもしれないが、それでも街が怪獣に破壊される光景を絵に描いて「ハーイ!!」と元気に掲げる姿を見ると、この子達は正常に育てられているのか不安になる。
黒木特佐の「ゴジラの活動再開を信じるか?」に対する権藤一佐の「そろそろ出てきてもらわんとな。こっちが税金を食う怪獣になっちまう」は「ゴジラが出現しないのが最も平和」ではあるが「ゴジラが出現しないとゴジラ対策が無駄になる」と言う「ゴジラと言う存在が当たり前となった社会」を上手く示した言葉だったと思う。
因みこの言葉を聞いた黒木特佐は平成VSシリーズ最終作『ゴジラvsデストロイア』の対ゴジラ最後の出撃になるであろう場面で「これで我々の来年度の予算は0だ」と呟いている。
権藤「ロボット工学、コンピューター、新素材に超伝導。先端技術のオンパレードだな。その上、超能力か……。自衛隊も変わったもんだなぁ」、
黒木「もう一つあります。生物兵器と言うものが……」。
昭和のゴジラシリーズでは新しい技術は宇宙からの侵略者が使う事が多かったが、平成VSシリーズでは宇宙人が登場しないので、先端技術は自衛隊やGフォースと言った人間の軍隊が使う事となる。
本作の主人公である桐島だが中々複雑な人物となっている。
怪獣作品の主人公は基本的にストレートで分かりやすい人物になっている事が多いのだが、桐島は科学の負の面を危惧していて大河内会長や自衛隊の計画に対して明確に反対の意思を表明できるのだが、かと言ってゴジラ対策への参加を拒否する事は無く、むしろ抗核バクテリア開発の為に白神博士を推薦し、権藤一佐と共に抗核バクテリアを奪い返す等、積極的にゴジラ対策に関わっている。
内に強い正義や倫理を秘めていながらゴジラが相手なので抗核バクテリアを作るのは仕方が無いと割り切れる主人公像は子供が見る怪獣作品では珍しい存在だったと思う。
核ミサイルを無力化する事が出来る抗核バクテリアが作られたら核兵器は最終兵器ではなくなる。
桐島は抗核バクテリアの登場によって核兵器が最終兵器ではなくなって世界が無秩序に陥る事を恐れていたが、一方の大河内会長は抗核バクテリアの登場によって核保有国中心の世界秩序が抗核バクテリアを持つ日本中心の秩序へと変わる事を期待していた。
簡単に言うと抗核バクテリアの登場によって桐島は「世界が悪化する事」を恐れ、大河内会長は「世界が変化する事」を期待していた。
大河内会長は本作では否定されるべき思想を持っているのだが劇中では悪人には描かれておらず、逆に抗核バクテリアを奪ったサラジアの情報を桐島と権藤に提供するなど活躍が描かれていた。
白神博士の抹殺を指示したサラジアの人間もかつては白神博士と親しかったりと本作はストレートな悪人は登場していない。
最後に「いつから私達はこんな時代に生きるようになったのでしょう。神に向かって一歩歩み出した日からそれは始まったのかもしれません」と語られているように、本作は「悪人」ではなくて人々がおかしくなってしまう「こんな時代」を描いていた。
桐島「確かに私達がこれから遺伝子操作で作ろうとしているものはちっぽけなバクテリアです。しかし、このままいけば遺伝子工学も原水爆が生んだゴジラに負けない怪獣を間違いなく作ってしまいます」、
大河内「桐島君。私達が作らなくても誰かがいつかきっと同じものを作るんだ」、
白神「人間がこれまでやって来た事を見れば、それは……」、
桐島「それじゃ私達科学者は……」、
白神「君にはまだ科学と言うものが分かっていないようだな」。
本作のテーマが示されている場面。
かつて人類は原水爆でゴジラを生み出してしまって科学の負の面を嫌と言うほど味わったのだが、その経験がありながら、そして今回は負の面を分かっていながら、あえて突き進む事を選んで、結果、遺伝子操作で第二のゴジラとも言えるビオランテを生み出してしまった。
終盤で白神博士の「もう私達の時代じゃないのかもしれない。彼や君のような……」と言う言葉に桐島が「同じ事を繰り返している限り新しい時代とは言えません」と返す場面がある。白神博士は初代ゴジラが誕生した時は20歳と言う若者だった。しかし、彼は原水爆がゴジラを生み出したように今度は遺伝子操作でビオランテを生み出してしまった。結局、昭和から平成へと時代が変わって科学者も1904年生まれのロバート・オッペンハイマーから1934年生まれの白神博士へと世代交代したのに人類は同じ過ちを繰り返してしまった。だからこそ桐島は若者への世代交代ではなく人類の意識の変化が大事だと白神博士に告げるのであった。
前作『ゴジラ』では不評だったらしいスーパーX。
これまでの東宝特撮怪獣作品にも轟天号のような超兵器は何度も出ているのでスーパーXもその流れと考えたら納得出来るのだが、前作『ゴジラ』のリアル路線とは合っていなかったところは確かにあった。
本作のスーパーX2は好評だったらしいが、おそらくそれは演出が良かった(やっぱり超兵器は発進シーンが大事)のと既に前作でスーパーXで登場していて、このような超兵器が出る世界だと観客が分かっていたからと思われる。平成VSシリーズは前作を踏まえた展開にした事で怪獣や超兵器と言った突飛なものも既に過去に存在しているとして違和感無く出せるようになったところがある。(それでもゴジラの熱線を1万倍にして反射するファイヤーミラーの設定はやり過ぎだったと気がするが……)
バイオメジャーは抗核バクテリアを手に入れる為に「要求が日本政府に受け入れられない場合は三原山を爆破してゴジラを復活させる」と日本政府を脅迫してくる。
「ゴジラの人質か……」と権藤一佐が呟いたようにゴジラが人間の駆け引きの道具にされている。昭和のゴジラシリーズではゴジラが温和になっても劇中の人々はゴジラを人間では到底敵わない強大な存在と見ていたのだが、平成のゴジラシリーズではゴジラを自分達の駒に出来ると考える人が出てくるようになった。まぁ、結果的にそう言う人達は報いを受ける事になるのだが……。
ビオゴジ登場!
自分は平成VSシリーズの世代なので、この頃にあった「力強さ」と「近寄りがたい怖さ」を両立させた感じがゴジラのイメージとなっている。
ゴジラが出現して権藤一佐が「ゴジラは出るわ。抗核バクテリアは持ってかれるわ。絵に描いたような最悪な事態ですな」と呟いたところにデーモン閣下の高笑いが重なる流れが最高!
映画に有名人が出演する事が度々あるがその中でもトップクラスの完成度だと思う。この場面はデーモン閣下を知っていても面白いが、たとえ知らなくても「悪魔の格好をした怖い人がゴジラ出現を受けてちゃんと視聴者にニュースを見るよう言ってくれる」が一つのギャグとして完成されている。
前作『ゴジラ』ではゴジラ対策の中心が年配の日本政府関係者だったのが本作ではヤングエリート集団となったのは『シン・ゴジラ』でゴジラ対策がベテラン揃いの内閣から矢口率いる巨災対へと移っていったのを思い出す。
作品にはその時代の文化が反映されるもので、1989年公開の本作も「遠隔操作されるスーパーX2」「ワイヤーフレームで表示される対ゴジラ戦の状況」「フィールドもののゲームのようなサンダーコントロールシステム」と1980年代の子供文化を語る上で外せないTVゲームの影響を感じる場面がある。
対峙するゴジラとビオランテを見つめる自衛隊での会話。
「一体どうなるんだ?」、
「勝った方が我々の敵になるだけです」。
個人的には怪獣映画は怪獣二体に人間を加えた三すくみの形が一番好きかな。
白神「ゴジラはあれが自分の細胞から作られた生物だと知って近付いてきたんだろうか……」、
明日香「かもしれませんね。二つは兄弟みたいなものですから」、
白神「兄弟などではない。文字通りの分身だ。同じ細胞で一方は動物、一方は植物」。
「兄弟」「分身」の言葉からゴジラとビオランテの関係が『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』のサンダとガイラと重なる。
ところで前作の『ゴジラ』と本作を見比べると敵怪獣がいる方がゴジラの行動に理由付けがしやすいのかなと思った。前作ではゴジラが東京に上陸する理由が分からなかったのだが本作のように敵怪獣がいたら「ゴジラはあの怪獣を目指してここにやって来た」で説明が出来る。
そう言えば子供の頃は気付かなかったのだが、後のベビーゴジラとの関係を見ると、ゴジラは最初から戦う為にビオランテに近付いたわけではなかったのかな?
本作の中盤の舞台は大阪。
昭和のゴジラシリーズは一作目の『ゴジラ』の舞台が東京で続く『ゴジラの逆襲』の舞台が大阪になっているが、平成VSシリーズも『ゴジラ』の舞台が東京で続く本作の舞台が大阪となった。
しかし、伊勢湾での自衛隊とゴジラの総力戦は見てみたかったなぁ。本作の怪獣がビオランテではなくモスラだったら実現したのかなぁ。
「私の仕事は敵に勝つか負けるかです」と自衛隊でありながら大阪は見捨てると言ったに等しい発言をした黒木特佐。黒木特佐は「ゴジラに勝たないと日本を守る事が出来ない」と言う事を十分に理解していてゴジラに勝つ事を最優先にしているのだと思われる。
とは言え、「情報操作を行う」「大阪を見捨てる」「女の子一人をゴジラに立ち向かわせる」「スーパーX2すら捨て駒にする」「サラジアの工作員をサンダーコントロールシステムで消す」と自衛隊がそれをやって良いの!?と驚かされる行動がかなりある。その辺りは自衛隊の上司達が黒木特佐の指揮の問題点を指摘する事でバランスを取っていたのかな。
大阪の避難シーンは斉藤由貴さんの『夢の中へ』中断からの避難アナウンスを経て権藤一佐の「探し物は何ですか~♪」へと至る流れになっていて、おそらくギャグの要素がある場面だったのだと思われるが、ゴジラシリーズにしては重さを感じられない避難シーンになっていてちょっとガッカリした。なんか「避難」と言うより「TVのイベントで皆が一斉に走り出した」と言う感じに見えた。
桐島が抗核バクテリアを取り返す為にサラジアの会社に乗り込むのはさすがにちょっとやり過ぎだったかな。『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』のように登場人物が限られているのなら納得出来るが、本作は自衛隊の活躍がメインに据えられていたので、抗核バクテリア奪還と言う重要任務を科学者の桐島に担わせるのは違和感があった。
ゴジラの顔と同じ高さにいてゴジラに見られると言う状況はこれまであまり無かったので、ビルに残った権藤一佐の背後にゴジラの顔がヌッと出てくる場面はビックリした。
あの強大なゴジラに自分一人だけが狙われていると言う状況はかなり怖いものであるが、ここで権藤一佐が振り向きざまに抗核バクテリアをゴジラの口の中に打ち込んで「薬は注射より飲むのに限るぜ、ゴジラさん」と言った事で「強大なゴジラにちっぽけな人間一人が狙われる」と言う恐怖の場面が「強大なゴジラを相手に対等の立場で戦いを挑んだ一人の人間」と言う格好良い場面へと上書きされた。
あのゴジラの怖さを自身の格好良さで上書きした権藤一佐はゴジラシリーズの中でも特に印象に残る人物となった。
サンダーコントロールシステムは昭和の東宝特撮怪獣作品によく出てきた高圧電流作戦の平成版と言える。ぶっちゃけると自分は高圧電流を流す為の鉄塔があんなにあっという間に作られるのはさすがに無理があるのではと思っていたので、サンダーコントロールシステムはその辺りの不自然さを解消したものだと考えている。(それでも数時間で全て準備するのは無理がありそうだけれど)
ビオランテは植物形態も怪獣形態もこれまでの東宝特撮怪獣作品にいなかったものでとにかくインパクトがあった。
植物形態は芦ノ湖に立つ姿が怪獣とは思えないほどの妖しさと美しさを纏っていてまさに北欧の神話を感じるものであった。
怪獣形態はまずゴジラを遙かに上回る巨体に圧倒された。これまでもゴジラを上回る大きさを持つ怪獣はいたが、その中でもビオランテはキングギドラと並んで大きさを感じる怪獣であった。そんな巨大なビオランテがゴジラ目掛けて大激走したのは予想外すぎてただただ度肝を抜かれた。
本作のゴジラは「体内放射」と言う新しい技を使っているがそれ以外は基本的に放射熱線で対応していた。それに対してビオランテは口が付いた蔦を相手に巻き付けたり噛みつかせたりする他、蔦を揃えて盾にしたりと技が多彩だった。
個人的には芦ノ湖で蔦を使ってゴジラの足をすくったのが他の怪獣には無いビオランテならではの戦い方で記憶に残った。
残念だったのはゴジラとビオランテの決着シーンが分かり難かった事。
抗核バクテリアの影響で動きが鈍くなったゴジラは海水で体温を下げて抗核バクテリアの効果を鎮めようとしたがその途中で力尽きてしまったと言う決着なのだが、ヘドラやメカゴジラとの明確な決着を見た後だとビオランテとの決着は戦いが途中で打ち切られた感じがして消化不良感があった。
又、最後にゴジラを活動不能にしたのがビオランテの能力ではなくて自衛隊の抗核バクテリアの効果だったので、ゴジラとビオランテの戦いが遂に決着!と言う形にあまりなっていないところがあった。本作は自衛隊の活躍が多くて好きな作品なのだが、さすがにちょっと自衛隊中心に話を作りすぎてしまったのかもしれない。
昭和のゴジラシリーズでは最後に怪獣が海に飛び込んだり落とされたりして決着する作品がいくつかあったが、本作でゴジラが抗核バクテリアの効果を鎮める為に海に入ってそのまま決着となったのはそのオマージュと考える事も出来る。
色々なところで語られているのであえてここで語るものではないのかもしれないが、最後の沢口靖子さんの場面はもう少し何とかならなかったのかなぁ……。
※やはり小林清志さんの予告ナレーションは良い!
